「おとボク」の萌え構造 >> 13. 補遺・その3

“ひねり”があるのはどっちだ?――「おとボク」での「ヒロイン萌え」の根本にあるもの +

 本編で「おとボク」の萌え構造は複雑である、とお話ししてきましたが、複雑な構造の謎を解き明かすには、それが単純に見えるようになる観点を見つけることが必要です。近頃、大いに助けになる材料を見つけましたので、ここでどのように単純化できたのかをお話しすることにしましょう。それこそ“ひねり”のあるタイトルですが、その意味は最後までお読みいただければよくおわかりいただけるかと。
 ※この「補遺・その3」は、第一章/第二節第一章/第四節、ならびに第二章全体(主に第三節まで)の重要な補足であると同時に、補遺・その2で語り切れていない「原作とアニメ化作品との比較」、あるいは第三章・第一節で述べられている「同人誌展開」の特殊性を解き明かすのに有効な内容も含んています。

常識の“罠”を超えて――「プレイヤーの視点」を比較する +

図:通常の美少女ゲームと「おとボク」とのプレイヤーからの視点の違いについて

  まず、美少女ゲームのプレイヤーの「視点」について、正しい認識を再確認しておきましょう。「大いに助けになった」kogosho氏のブログ記事には、

普通のギャルゲーであれば主人公はプレイヤーと一体

 という表現があります。普通、美少女ゲームのプレイヤーは主人公になったつもりでプレイする、と言われていますが、これは表面上は正しくても、意識の奥深くの問題としては大きな誤りです。通常の美少女ゲームでは、プレイヤーは直接主人公に感情移入するのではなく、主人公以外の同性(=男性)キャラに感情移入して、彼の、すなわち直接的な関係性からやや離れた《俯瞰的な立場》から、主人公とヒロインとの関係を追いかけていきます(別掲の図を参照のこと)*1。わかりやすく言えば、主人公やヒロインの様子がよくわかる、すぐ近くの木や建物などの陰から見ているイメージ、と言えましょう。このときプレイヤーは、主人公を「主人公以外の同性キャラ」というフィルターを通しているからこそ、逆に主人公とヒロインとの間に繰り広げられるドラマを安心して眺めることができ、その結果自分の思い通りかつ《客観的に》ヒロインに萌えられる*3わけです。もうひとつたとえを使うなら、ヒロインが主人公めがけて投げてくる「想い」のボールを《バッターボックスから見て》いて、それをバットの芯に当ててホームランにするもよし、きわどいボールをよく見てフォアボールで塁に出るもよし、キリキリ舞いになって三振するもまたよし、“どうにでも自分の好きなように妄想できる!”ということになりましょうか。

 しかし、「おとボク」の場合は違います。このゲームは主人公以外に感情移入できる同性(=男性)キャラが存在しません。そのため、プレイヤーは、無理をしてでも主人公に感情移入する(「おとボク」においてそうさせるための方法論は第二章/第一節および第二章/第二節を参照*4)か、または「おとボク時空」にはいりこむことなく、はるか遠い空から《冷めた目で》主人公とヒロインとの関係を眺めるか、どちらかを選ぶしかないわけです。そして後者は、

このゲームの場合は(特にフルボイス版で顕著)主人公である瑞穂もプレイヤーにとって客体であり、映画やアニメのような受け取り方で鑑賞してしまう

というkogosho氏の言を借りるまでもなく、アニメを見るのと同じ視点、ということになります。

 ここで後者を選んだ場合、このゲームが「美少女ゲームとしては常軌を逸している」ものの「アニメ化作品でそのまま有効なアプローチもまたしていない」がゆえに、逆に「通常の美少女ゲームと構造上同じ点」ばかりが目について、ヒロインに萌えられないままプレイを終了することになります。これは「補遺・その1」で述べているとおりです。そして、kogosho氏は、

「瑞穂はどういった過程で、あるいはどういう理由で、攻略対象ヒロインに特別な感情を抱くようになったのか?」

という根本的な疑問を抱くことになってしまいます。事実、このような批評は、「おとボク」の感想/レビューサイトでも多く見ることができる、きわめて一般的なプレイ後の感情のひとつです。そしてそれは同時に、このゲームを心から楽しめなかったことを如実に示すものでもあります。主人公フルボイス化が、「おとボク」に正しく「とろけ」た人たちから、さらなる主人公萌えのためにリクエストされたものである(第二章/第二節のコラム参照)ことに対して、主人公を「客観視」する材料として使われてしまったのは、大変残念なことでした。

【コラム】「おとボク」アニメ化作品の成功理由って何? +

 ここでいったん話は本題からそれますが、アニメ化作品がなぜあれだけの成功を収めたのか、を「絵の質」や「声優」などとは関係なく、あくまで「作品の構造(構成)」の観点から見ていくことにしましょう。
 ひとことで言えば、アニメ化作品は「メディアの違い」が「視点の違い」につながる、ということをよく意識した上で作られた、「アニメのための『おとボク』」とも言える作品であったから、ということになります。原作のエピソードを踏襲しながら、全く別の『おとボク』を作ってしまったわけです。

 アニメの視聴者が、「はるか遠く(別世界だと認識しているくらい)から主人公とヒロインとの関係を見つめる」という構図で『おとボク』を見る、ということに気がついていたスタッフは、キャラをどう描くか、その中で原作中に出てくる印象深いセリフや場面をどう生かすか、という観点から、作品をアニメ化作品向けに再構築しました。例えば……

原作ゲーム第二話(由佳里寄りルート)およびアニメ化作品第四話、瑞穂が由佳里に乞われて添い寝を決心する場面で、
アニメ化作品の場合:

「……って、いいのか? 一緒に寝たりして…… もし僕が男だってバレたら……」という自己ツッコミ(心の声)がはいる

のに対し、
原作ゲームの場合:

地の文で「お、おおお、落ち着け瑞穂っ……お前はおんなのこなんだっ、女の子女の子女の子っ!!」「さあ、落ち着け瑞穂……この子は妹…いもうといもうといもうといもうと……っ。」と一生懸命自分に言い聞かせる

といった具合です。アニメ化作品が明らかに「第三者的視点」を考慮している(その上で序盤にはやや「ヘタレ」設定がはいっている――第七話から第九話にかけての「瑞穂の成長」を目立たせる目的もあったものと思われる)のに対して、原作ゲームの方では「プレイヤーが主人公(=瑞穂)視点を獲得している」ことを前提とした表現になっています。

 その過程で、たぶんkogosho氏と同じような疑問点が出て、さんざん討議した上であるのでしょう、あえて「誰エンド」であるかを選ばない、という結論に達したのです。彼の朴念仁さと全校の憧れの的である「エルダーシスター」としての責務をまっとうしてしまう高いスペックを生かすには、「ハーレムエンド」こそがふさわしい。それを前提として、その間に「まりやvs貴子のライバル関係*5」などおもしろおかしく描ける点を多少誇張しつつ、瑞穂の成長にもスポットを当てていく、という構成になった作品ができあがったわけです。そして、「ハーレムエンド」になったことで、純粋にアニメとしてアニメ化作品を見ている人たちにとって、アニメ化作品は《夢想の実現を確信》させる作品になりました。いわゆる「コアな萌えアニメファン」層に対する訴求にみごとに成功したのです。

 しかし、それがゆえに、アニメ化作品を純粋に愛する人たちにおいては、おとボクの原作をプレイし、とろけた人たちには“あり得ない”ことである、“どうにでも自分の好きなように妄想できる!”という特徴までついてきてしまいました。瑞穂や貴子が(触手によって*6、というものも含めて)陵辱されたり、調教されたりする同人誌が出てきたのは、アニメの一般的な萌え構造がアニメ化作品に適用されたため、ということで容易に説明することができるでしょう。それに対して、「おとボク」原作ファンにとっての同人活動はどういうものなのか、は後述します。

ヒロインからの「想い」をありのままに受け取るとき、何が起きるのか――「おとボク」の「ヒロイン萌え」 +

 では、幸運にも前者を選択できた場合にはどうなるのでしょうか? ここでこのゲームの「通常の美少女ゲームと構造上同じ点」が生きてきます。美少女ゲームの「ヒロインが主人公を好きになる」構造です。選択肢を目的のヒロインへと進めていくと、ヒロインの側から主人公(に感情移入したプレイヤー!)に対して《直接的》な働きかけが見られることになります。ここが重要です。その視点構造上の問題から、通常の美少女ゲームでは、「ヒロインはプレイヤーに対して《間接的》に働きかけてくる」ことになり、そしてプレイヤーの妄想を具現化するためには「ヒロインを《攻略》する」ことが必要になります。それに対して、「おとボク」では「ヒロインがプレイヤーに対して《直接的》に働きかけてくる」のです。そこには、何の“ひねり”も存在しません。これをさきほどと同様に例えるなら、当事者意識、すなわち主人公の視点を獲得したプレイヤーは、ヒロインからの「想い」のボールがどんなものであれ、とにかく自分でありのままに受け取らなければ物語が先に進まない、いわば《キャッチャー》としての役割を果たすことになります。kogosho氏は、

瑞穂視点を獲得できた(=瑞穂になりきった自分が存在するという仮定)とした場合にマルチエンディングの構造、しかもその選択肢は自らコントロールできない状況にある中で、どうやってその「シナリオ」と「自分自身となった主人公」との整合性を取っていくのか

という疑問*7をお持ちのようですが、自らコントロールできないのは、決して“選択肢”ではなく、この“ヒロインからの《直接的》な働きかけ”そのものなのです。そして、シナリオは働きかけてきたヒロインの側からやってきますから、あくまで個別シナリオを進めている間においては、整合性を考える必要すらないことになります。

 ここでもう一つ、《攻略》という美少女ゲームにおいて大変重要な概念が忘れ去られていることにも注意してください。「《攻略》対象」だったはずのヒロインから直接アプローチされる「快感」を存分に味わったプレイヤーにとって、「主人公がどのようにして(《攻略》対象)ヒロインを好きになっていったのかがはっきり語られていない」ことは決して問題にはなりません。むしろ、自分のもとに《白馬の王女さま》*8がやってきたことを喜び、そして向こうから手をさしのべてくれることを心地よく思うようになっていきます。これは、通常の美少女ゲームにはありえないアプローチです。「おとボク」が美少女ゲームの「ヒロインが主人公を好きになる」構造を活用し、それを自然でかつ劇的な「ヒロイン萌え」に結びつけた《受略》のマジックなるものが、そこには存在するのです。

 こうして「おとボク」を「とろけ」るまで楽しんだプレイヤーは、通常の美少女ゲームのヒロインに対してとは比べものにならないヒロイン萌えを獲得し、「おとボク時空」の心地よさに浸っていくことになります。それは、「おとボク時空」が「ヒロインから《直接的》に愛を告白される」夢のような世界を具現化した、他に類を見ない「甘美な世界」であるからにほかなりません。しかも、その《受略》のマジックは、第二関門(主人公萌え)を突破することができなかったkogosho氏が「おとボク」を高く評価する理由としてあげた、第一関門であるところの「その世界観、その雰囲気」、そして全体に漂う「優しさ」によって、高度に増幅されているのです。それこそが、「おとボク」が制作者の意識の外側*9で実現した「奇蹟」、すなわち《夢想の実現を確信》させたその萌え構造なのです。

【コラム】「おとボク」の「ヒロイン萌え」は同人活動をも制約する! +

 それでは、ひとつ前のコラムでもお約束しましたので、“ヒロインからの「想い」を直接受け取る”ことになったファンたちが同人活動をすすめる上で、ほかの作品とどのように違う反応をしていったのか、ということをお話ししておきます。

 2ちゃんねるの「処女はお姉さまに恋してるSSスレ」のテンプレートには、以下のようなQ&Aがあります(もちろん、これだけではありませんが)。

Q:瑞穂ちゃんを襲った○○が許せません! お仕置きしてもいいですか?
A:構いませんが、必要以上の暴力・陵辱・強姦・輪姦・監禁・調教・SM・スカトロ・グロ・強制妊娠・達磨プレイ・死姦・人体改造・触手・食人等、読み手を限定してしまうような表現がある場合は、投稿所*10の方へお願いします。
 また、直接的な表現が無くても鬱な展開になった時は受け入れられない場合もあります。

 通常の「同人活動」からすれば、猛烈な制約です。でも、もうその理由はおわかりでしょう。通常の美少女ゲームやアニメといった作品にはある、“自分の好きなように妄想できる!”*11という“常識”が、「おとボク」に関しては一切通用しないからです。それは、さきほど説明したとおり、「おとボク」原作ファンたちが、ヒロインからの「想い」をありのままに受け取ったことからくる当然の帰結です。具体的に言うなら、ヒロインからの「想い」をありのままに受け取り、ヒロインとの間で(もちろん擬似的に、ではありますが)《直接的》に「強い絆」と「確かな想い」を築いた原作ファンたちにとって、ヒロインたちもその感じたままの世界、すなわち「おとボク時空」から抜け出すことなどあってはならないし、また考えられないのです。だからこそ、そんなヒロインたちが(「超とろけ」な方々の一部においてはあくまで「メインヒロイン」である主人公・瑞穂お姉さまも含めて)監禁・陵辱などされるのは許せない、ということになるのです。

 一方、「おとボク時空」にふさわしい、あの世界観・あの雰囲気の中で、ヒロインと主人公、あるいはヒロイン同士における「強い絆」と「確かな想い」を確認するような作品*12、あるいは作品のコミカルな部分を取り出し、場合によっては他の作品の形式と「おとボク」の登場人物を借りてのギャグ作品(特に瑞穂お姉さま「いじり[※精神的な意味で]」をする作品、これは第一関門・第二関門を通過していく時点で……なので、大いに「あり」です)などは歓迎されます。こうして、「おとボク」の同人からは、必然的に「エロあり」作品が少なくなっていく、という構図が成立していくのです。

 このような傾向は、同人誌を買う側がコアなファン中心になっていることもあり、最近ますます顕著になっています。その傾向をつかんで同人誌を仕入れているのがごく一部のバイヤーさんだけ、という現実はなんともつらいものがありますが、このあたりのからくりをぜひ知っていただき、みすみす販売機会を失うことのないようにお願いしたいところです。

終わりに +

 この補遺の論点とは関係ありませんが、「おとボク」なる作品の世界観・雰囲気、そしてそこにあるひとの心の優しさ、温かさは、「美少女ゲーム」の中でも特筆すべきものです。そのことをkogosho氏は、

18禁ゲームであるが故に偏見に晒されて、その内容全体が評価されない向きがあることは非常に残念だ。

と述べて、評価しておられます。私も公式ノベライズ「櫻の園のエトワール」をその入り口に据えてのプロジェクト「お姉さま」:「おとボク」をもっと多くの“お姉さま”方に!など、「おとボク」を評価してくださる方の裾野を広げるための活動をしてはいますが、なかなか思うように進んでいないのが実態です。

 「『おとボク』の萌え構造」は、「おとボク」を「美少女ゲーム」の枠に閉じこめている限り、決して見えてくるものではありません。そして、その世界観・その雰囲気は、本来なら「美少女ゲーム」の枠には合わないものである、ということもまた、「おとボク」のあとに「おとボク」同様の作品が出てこないことによって“事実上”証明されつつあります。この補遺も含めて、本稿自体が、この作品の特質を多くの人に伝え、その表現をいろいろな角度から制約されようとしている「美少女ゲーム」の中に、こんな思いもよらない作品があるんだ、と認識してもらえるようになれば、と私は強く願っているところです。


(最終更新日:2011-01-01 (土) 18:13:43.)



*1 あるいは、主人公をストーキングしている、というイメージでプレイしている人も少なくないのかも知れません。普段は自分が主人公の陰に隠れて「透明人間」化しておき、いざ「ご褒美」シーンになると主人公を透明化させて……というパターンです。これは、いわゆる「ご褒美」目的性が強い、本文同様にたとえて言うなら「審判員*2」のイメージであることから、この節での比較対象外なので脚注まで。
*2 進行は決定するが、試合の当事者ではなく、あくまでも傍観しているに過ぎない
*3 実は、「美少女ゲーム」の限界はここにこそある、と筆者は思うようになってきています
*4 具体的には、異性キャラを主人公萌えの入り口として活用している点が極めて異色
*5 あくまでもメインは貴子であり、まりやは「幼なじみ」というありきたりな属性を生かした当て馬に過ぎない。ちなみにアニメ化作品では瑞穂はあくまで「主人公」に過ぎないことにも注意
*6 アニメ化作品のテレビでは放映されない「おまけ」第13話に出てくるのです、これが(苦笑)
*7 この疑問だけは、ブログ記事ではなく、筆者あてのメールに含まれていました
*8 この語の定義について、あるいはネット上でどのような論議がなされているか、さらに第二章/第四節で述べた「乙女回路の内蔵」との関連については、kanose氏による「ARTIFACT@はてな系」のエントリ「好きな子」がいないのは正しい――白馬の王女様ならびに白馬の王女様願望反応メモおよびそのリンク先を参照のこと
*9 本作シナリオライターの嵩夜あや氏は、この作品が世に出てから三年以上経ついまになっても、「なぜこんなにウケたかわからない」と言っています
*10 「おとボクSS投稿掲示板」のこと、ここには「おとボク」の世界観からはずれた作品も含めて投稿が許されている=2008年廃止
*11 「二次創作陵辱って、NGを無理矢理やるのが醍醐味なんじゃなかろうか……?」などと表現したチャットメンバーがいましたが、それは“自分の好きなように妄想できる!”からこそできるわけです
*12 「おとボク」の同人活動においては、「エロあり」作品を作るにあたっても、基本的にはその延長線上にあるえっちシーンであることを求められます

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