「おとボク」の萌え構造 >> 2. 第二章 >> 2-5. 第五節 最終選択:「回復不能」への道 +……そして、作品世界をひたすら漂い、心地よい思いのうちにフルコンプしたプレイヤーに、最終選択が迫ります。それはいったい何で、選択の結果はどのようなものなのでしょうか。
最終的な戻り先:「やっぱり瑞穂が一番好き!」 +
このゲームを一通りプレイし終わって、改めて振り返ったとき、こうなってしまった人がやはり多いようです。 完璧超人のスペックを持った主人公が、突然否応なく女子校に編入させられ、いじられ、苦悩しながら、ときには「漢」ぶりもいかんなく発揮して、ヒロインとの「強い絆」を築き、「確かな想い」を育む。シナリオライターさんが「この物語は瑞穂あってのもの」とおっしゃられているように、『処女はお姉さまに恋してる』の世界では、宮小路瑞穂こそが最も魅力的な人間として描かれています。しかも、肉体的にも精神的にも“二重構造”を持っている(直後のコラムで詳しく説明します)キャラであるため、「男の子」として萌えることも、「女の子」として萌えることもできる、という、まさに「お徳用」という言葉がふさわしいキャラクターであることも、「瑞穂最萌え」を誘発する大きな要因となっています。 物語の世界観・雰囲気にどっぷり浸かり、この作品の「魔法」にとことんまでかかった方々、「とろけ」度合いだけではとても計りきれない、猛烈なインパクトをこの作品から受けた方々……そんな方々が最終的に行き着く先が、この物語で最も魅力的なキャラである宮小路瑞穂こそが最萌え、というのは、そのキャラクター特性から考えれば、至極当然な結論です。そして、こうなったらもはや「こんな可愛い子が女の子のはずがない!」でも、「男でもイイ!」でも、「漢だからこそいい!」でも、大差ありません。「この世界観が素敵! そして瑞穂最萌え!」ということに変わりないのですから。 申し訳ありませんが、ここではこのような方々を「回復不能」と呼ばせていただきます。なぜなら、この物語には「バッドエンド」がないからです。瑞穂最萌えな方々にとって、物語中には「“強制的に”現実に戻る」というオプションは準備されていないのです。詳しくは次節で話しますが、これもまた、この作品の“特質”である、と言えるでしょう。 [コラム]「おとボク」vs「はぴねす!」――同じ女装キャラでもこんなに違う +話のついでに、宮小路瑞穂と渡良瀬準というふたりのキャラクターについて、比較分析してみることにしましょう。 『はぴねす!』の渡良瀬準というキャラクターは、「おとボク」の厳島貴子役を担当した声優が声を当てた「女装」キャラ。おそらく「おとボク」で「女装っ子萌え」属性を獲得した層と、「おとボク」以前からその属性を持っている層が、メーカーの思惑を超えて、渡良瀬準というキャラクターに注目を集めさせることとなりました。ところが、この渡良瀬準と「おとボク」の宮小路瑞穂という二人のキャラクターには、以下のような大きな違いがあります。ちょっと項目別に見ていきましょう。 宮小路瑞穂 vs 渡良瀬準:“女装”ゲームキャラ比較表
そこまで行かなかった人も十分満足 +ところで、この作品の「萌え」過程にある四つの関門とは違い、「最終選択」は選択内容によって“人が選ばれる”わけではありません。「主人公最萌え」でなくても、四つの関門を無事に越えてきたプレイヤーにとっては、この作品がまさに「夢のような世界」を体感させてくれることには変わりないのです。そんな世界をたっぷり味わったなら、「十分満足」に違いないのであり、「超とろけ」であることに変わりありません。ただ「回復不能」状態に陥るかどうかだけの差であるわけです。 [コラム]「おとボク」と他の(類似)作品との明確な違い +ここで、アニメ化された(あるいはされる予定の)他の類似点のある作品たちに対して、「おとボク」がどういう立ち位置にいるのか、ということを明確にしておきたいと思います。 (1)「かしまし」vs「おとボク」 +
『かしまし』という作品の優れた点は、男性が主人公に萌えるための梯子が「おとボク」と比べて「かなり低い」点にあります。その理由は、ひとつは「身体的性別」が「異性」(男性から女性)に変化しても、振る舞いがしばらくは「同性」(男性)のまま、また「精神的性別」は「男」ながらおとなしい性格で「女」としてもあまり違和感を憶えない、という主人公の特性によるものです。そしてもうひとつは、主人公以外に男性キャラが登場することです。このため、第三者的視点から安心して主人公に萌えることができるわけです。これはまさに「美少女ゲーム」的フォーマットであり、「かしまし」という作品の人気の源泉はまさにここにある、と言っていいでしょう。 (2)「ストパニ」vs「おとボク」 +
『ストロベリー・パニック』に関して、「マリみて」+「おとボク」÷2、という記述が見られますが、「ストパニ」の“エトワール”と「おとボク」の“エルダーシスター”という類似制度がある、ということだけで、両者はまったく異なる世界観と萌え構造を持っています。 「ストパニ」については、「メガミマガジン」での「百合姫」編集者によるコメントに
という記述があります。このことからわかるように、「ストパニ」は、「学園(群)内での派閥の存在」に代表される環境面にリアリティを求めた、「マリア様がみてる」やその他女性だけが登場する各種作品を受容した人向けに萌えを強化した作品といえます。人によっては、『シスター・プリンセス』*3のフォーマットに「マリみて」を載せてみた作品、といった表現をされる方もいます。そして何より、「第三者的視点」、そう、いかにも「美少女ゲーム」を楽しむのと同じような視点で、安心して萌えることができるのが、この作品が評価されている理由である、と言えます。 (3)「プリプリ」vs「おとボク」 +
『プリンセス・プリンセス』は、男子校で「姫」という制度のもとに“女装姿を楽しむ”ことがある意味“メインイベント”であり、そこにはある種の「倒錯感」があります。特に、現実の彼女に「姫」としての活動を知られたくない、という美琴の心の葛藤に、それがはっきりと現れています。それに対して「おとボク」では、前述の通り“女装”は女子校で“生活”するための“手段”に過ぎず、そこでは「倒錯感」の存在は無視されてしまいます。しかも、主人公が異性から「キャーッ」と言われるこの快感は、同性からの歓声からは生まれるはずもありません。ここが「おとボク」の“すごいところ”なのです。 (4)「舞−乙Hime」vs「おとボク」 +※「舞−乙Hime」はコミック版を比較対象としています。
『舞−乙Hime』も「おとボク」も、「女の園に男がひとり」であり、多分に「マリみて」の影響が見られる(というか、「舞乙」の方は“ネタ”として使っている)わけですが、『舞−乙Hime』のほうはさすがに「少年」マンガ雑誌に収録されるだけあって、いわゆる「主人公の女性からの囲まれ方」(ラスボスとの戦い終了直後のシーンが代表的、寮での生活も「おとボク」では個室*4配置なのに対し、「舞−乙Hime」ではリアル女性と同室でまさに「生殺し」状態)とか「豊富なサービス画像」とか、むしろ男バレも武器になるような描き方がなされています。しかも「燃え」中心に話が展開する「おまけ」つきで、どう見ても男性“のみ”を読者対象とした作品であることは明白です。それに対して「おとボク」は「えっちゲーム」であり、本来ならより「男性“のみ”向け」に作られていていいところであるにもかかわらず、「マリみて」の世界観を上手に「えっちゲーム」上に再現したそのフォーマットと、「関係性」をうまく活用した人物描写により、むしろ女性にとってもすんなりとはいりこみやすくなっています。このあたりに「マリみて」へのリスペクト具合の違いが出ていて、なかなか面白いところです。 (5)「ふぁいなりすと」vs「おとボク」 +
『ふぁいなりすと』(※アニメ化“予定”作品です)においては、最終目的が「女子部から共学部への転部」であることからわかるように、主人公にとっての女子部は「仮の居場所」であるに過ぎません。それに対して、「おとボク」においては、主人公にとっての女子校が「逃げ場のない正式な居場所」であることが、「関係性」(=「ドキドキ」の度合い)に大きく影響してきます。当然「おとボク」のほうが深い「萌え」を獲得できることは、いままで述べてきたことから明らかです。 (最終更新日:2008-03-13 (木) 13:55:04.) |
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