「おとボク」の萌え構造 >> 3. 第三章 >> 3-2. 第二節

 

現実へのフィードバックについて +

 さて、もうひとつ出口側で重要な論点があります。それは、この作品が持つ「現実へのフィードバック」の力です。この作品には、その萌え構造ゆえに、この「フィードバック機能」についても注目すべき観点がいくつかあります。それらについて、これから検討していきます。

瑞穂お姉さまの成長面からのフィードバック +

 まずは、『萌えの入口論』の執筆者であるいずみの氏から私に対して出されていた「宿題」に回答することにします。その「宿題」とは、以下のようなものでした。

 ぼく(=いずみの氏)の視点からすると、おとボクの瑞穂お姉さまは「男として」どういう成長をしたのか(プレイヤーが「男として」憧れられる面があるのか?)という点がどう評価されているのか気になってます。

 「主人公(=瑞穂お姉さま)の成長物語」というフレームがこの作品にあることは第一章の中で(「美少女ゲーム」的である部分)触れました。もう少しこの面を詳しく解説すると、言われるままにあれこれ吸収してきたものの主体性がなく、いわば「お人形」だった瑞穂が、ヒロインたちとの「関係性」から「誰かのために」行動することを通して主体性を育み、その恵まれたスペックにふさわしい自信と人格とを築いていく、ということになります。
 この部分から、「主体的にものごとに関わっていくことによって、自らを成長させ、他人との人間関係において『強い絆』を築いていく」というフィードバックができればよいのですが、そのような応用ができることに気づいている人は、実は非常に少ないのではないか、と思います。あるいは、この文章を読んで初めて、そのようなフィードバックをすることができるのか、と気づかれる方も少なくないものと思われます。

 その理由は、結局のところ『強い絆』や『確かな想い』を築く相手が“ヒロイン”である上に、主人公が「瑞穂“お姉さま”である」というところに帰結してしまうものと思われます。瑞穂お姉さまの成長は、彼の思考が完全に「男性」のそれであることから、間違いなく「男性」としてのものではあります。しかし、瑞穂お姉さまの振る舞いが「女性」としてのそれになってしまっている(第二章のコラム「他の(類似)作品との明確な違い」で触れました)ことから、プレイヤーが主人公視点でプレイする、という、フィードバックにはむしろ利点となるべき状況が十分に活かされないままうち消されてしまう、という事態が発生してしまうのです。事実、「おとボク時空」を漂い続けるプレイヤーの多くが、萌え構造を受け入れる過程で「瑞穂“お姉さま”」の「女性」としての部分を肯定的に捉え、「瑞穂お姉さま」=「メインヒロイン」という考え方をも受け入れてしまいます(第二章/第五節で述べたとおり)。これはこの作品の素晴らしい萌え構造が持つ最大の弱点、ということもできるかも知れません。

 そして現実に戻すことができるフィードバックは、物語の大筋とは関係ないところである「歩き方」や「姿勢」に気をつけるようになった、というものにとどまってしまうわけです。

「現実の恋愛」へのフィードバック +

 もう一つ、この作品が持ち得る非常に特異なフィードバックについて、触れておくことにします。それは、「他者性」「関係性」を通してヒロインに萌えていることを現実の恋愛にうまくフィードバックできないか? ということです。しかし……なにせコアなオタクたちのこと、結構難しいかも知れません。その理由は、いったいどんなところにあるのでしょうか?

 まず、萌えの過程で、プレイヤーは主人公に「萌え」(=むしろ「惚れ」)ています。主人公視点でプレイするプレイヤーにとって、このことは、「現実の恋愛」へのフィードバックに関する最大の動機付けになるはずなのですが、残念なことに、ここにひとつの問題が生じます。それは、主人公が「完璧超人」として設定されていることです。この設定は、「エルダーシスターの魔法」の効果を最大限に高めることには大きく貢献していますが、物語を追っていった先で、いざ自分に置き換えてみるときに、「あれは完璧超人だからできたこと」という悪い「理由付け」を与える十分なきっかけになり得てしまいます。
 さらに、舞台設定が次なる問題を提起します。この物語は、幾人ものプレイヤーが「ヌルい」と表現した「悪人のいない世界」の中で展開します。この世界は、現実よりははるかに「甘美」な世界です。しかも、主要登場人物の中で男性は主人公しかいない、という、女性たちから見れば「選択肢のない世界」でもあります。しかし、現実はどうでしょう? 「現実の恋愛」においては、女性から見て男性の選択肢は掃いて捨てるほどあり、そこにはドロドロとした駆け引きや思わぬ落とし穴も待ちかまえています。さらにこの物語が丁寧に準備した、プレイヤーたちにとって越えるべき「壁」を越えやすいように用意されたさまざまな「サポート」も、当然のことながら用意されていません。これらの壁は、物語の中の瑞穂お姉さま同様、自ら主体的に越えていくしかないのです。

 「他者性」「関係性」を意識し、そして“傷つける性”であることを受容した上で、相手の女性の立場に“共感”し、主体的に関わっていくコミュニケーションがとれる、そのためのヒントはこの物語の中に多数用意されています。この「他者性の意識」→「相手の内面の理解」というこの物語の「関係性」をうまく実際の恋愛にフィードバックできればいいのですが、プレイヤーたちはその前に、そこにある「壁」を「サポート」なしに越えていかなければならない、という「現実」に、「壁」を越えることを躊躇してしまう可能性が非常に高い、と言わざるを得ません。そこが容姿その他とは関係ない、「非モテ男性」と「モテ男性」との間にある「壁」である、ということに意識が回る前に、あの「完璧超人」だからこそ越えられる「壁」なのであって、自分にはそれは無理だ、とあきらめてしまうのです。それゆえに、せっかく主人公になりきって、ヒロインとの「関係性」を楽しんだプレイヤーの大部分が、あれはあくまでも「おとボク時空」での出来事であって、決して現実に持ち帰れるものではない、と割り切ってしまうことになるのです。

 最後に、これは検証不可能な私見ですが、それらを越えていく可能性は、むしろプレイしていく中で“自己浄化”作用が働いたプレイヤーの中にこそあるのかも知れません。「理想の世界」においてではありますが、精神を浄化される体験をした、そんな彼らは二種類に分類できます。自分が精神的に「女性化」してしまった人たちにとっては、残念ながら戻る道が存在しない(少なくともこの作品世界を漂っている間は無理)のですが、そうでない人たちにとっては、「神聖な気がした」ところから、女性に対するときの「関係性」「他者性」を意識し、“傷つける性”であることを受容し、相手の女性の立場に“共感”することの大切さに、(少なくとも潜在的には)気づいていると考えられるからです。そしてそれは、「現実の恋愛」に応用される可能性もあると思われるのです。

 プレイヤーがこの物語を「主人公視点」すなわち「当事者視点」で“体験”していくからこそ生まれるこのフィードバックの可能性は、『処女はお姉さまに恋してる』という作品が、単なる「エロゲー」からはるか遠い世界に飛翔していってしまったことを如実に物語っている、と言えるでしょう。

 

(最終更新日:2008-03-13 (木) 13:55:04.)



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