「おとボク」の萌え構造 >> 2. 第二章 >> 2-2. 第二節 関門その2:主人公に萌えられるか?――舞台・キャラクター設定による「謀略」 +さて、「お嬢さま学校」に「ひとり女装して潜入」という特殊な舞台設定を受け入れたプレイヤーは、次なる関門(しかも、これが最も高い関門)を仕掛けられることになります。そして、この関門こそが、この作品を最も特徴づける内容、と言っても過言ではありません。シナリオライターもここまでは想像していなかったという、その関門を超える「意義」とは、いったい何なのでしょうか?
いままでとは違うタイプの「女装っ子」主人公 +しつこいようですが、宮小路瑞穂は「女装」して「処女(おとめ)の園」の世界に溶け込んでいきます。しかし、従来の「女装っ子」キャラとは明らかに一線を画しています。そのことについて、ここで取り上げておくことにしましょう。一般的には、「主人公が女装」というだけで、取っつきにくい印象を与えてしまうものですが、「おとボク」に関してだけは、むしろそのような理由で回避するのはもったいない、と思える理由があるからです。 「女装っ子」キャラのよくあるパターンとしては、以下のようなものがあげられるでしょう。 (1) 無理矢理女装させられ、えっちも含めていいようにいじられてしまうパターン。いわゆる「ショタ」キャラ。基本的にはこれが大部分といえ、一般的に「女装っ子」から連想されるパターンはまさにこれである。 さて、宮小路瑞穂はどのパターンでしょう? 第一話の途中まではやや(1)っぽく作られていますが、基本的には「どれでもない」というのが正しい答えです。この物語の中では、宮小路瑞穂の「女装」設定は、まず主人公への感情移入および「萌え」を誘発するために使われ、その目的を果たすと、いったん忘れ去られてしまいます。そこにはもはや「女装っ子」ではなく、すっかり振る舞いが「お姉さま」になりきった、でも心は男、という登場人物がいるわけです。残念ながら、普通の「女装っ子」としての展開を期待した人たちは、第三話以降の話の展開についていけなかったのではないか、と推測します。そして、その設定が次に思い出されるのは、由佳里ルート・奏ルートの第七話終盤あたり。それも、あくまで「騙している」ことからくる葛藤やハプニングの発生で「はっ」とさせられるわけであり、もはや「女装っ子」趣味のらち外です。 もうひとつ、宮小路瑞穂に関して重要な設定があります。それは、前節でも述べましたが、「女装」する主人公以外に主要な男性キャラが登場しない、ということです。 ……結局のところ、「おとボク」での「女装」の意味は、第一話でまりやが「『普通の女の子』になるために女装するんだから」と言っているとおり、あくまでも女学院に転入し、その世界で過ごすための「必要性」からのそれ、というところに終始しています。そのことにより、「お姉さま」(=「女性」)としての振る舞いも、個別ルートでの「漢」または「男」としての振る舞いも、「女装」という設定に邪魔されることがありません。このことも、この作品の持つ「絶妙なバランス」の一例ということができるでしょう。むしろ、「女装潜入」を強調しなくてもよかったのではないか? と思えるくらいに。 女性キャラクターによる“主人公萌え”の演出 +次に、上手に主人公に感情移入できたプレイヤーに、ここで大きな“ボーナス”があります。それは主人公が「いじられキャラ」である、ということに起因します。本人が「仕方なく女装させられている」という状況をうまく使って、前節で触れた「腹黒コンビ」は主人公をいじっていくわけですが、いじられるキャラは同時に愛されるキャラでもあります*1。しかも、この主人公、「どう見ても女の子にしか見えない」容貌の持ち主。これまたしっかり「自然に『ご都合主義』」しています。となれば、こんなに「かわいい」キャラは、プレイヤーにとって、どうしても萌えてしまう対象として意識されていかざるを得ません。いわゆる「主人公萌え」の演出です。 この作品を心から楽しめるか、楽しめないか、の最も重要な分かれ目がここにあります。箇条書きにして要点を整理してみます。
「主人公萌えをした人は、主人公は自分(プレイヤー)ではないと公言しているようなものである。」と書いたレビュー*2がありましたが、このレビューアーは、このゲームの特異性を理解することができていません。なにしろ関門その1で自ら白旗をあげた人です。このゲームをプレイする上で最も厳しく、かつ最も重要なこの関門など、到底理解することはできないでしょう。そして皮肉にもこれこそが、このゲーム最大の特異性であり、特徴なのです。 「自分が萌えキャラになる」ということ。これこそが、このゲームを楽しくプレイしていくための最大の“ボーナス”になるのです。それは、「プレイヤーが同化する先としての主人公に萌える」のでなければ得られない、従来の美少女ゲームにはまったく存在しなかった「感覚」なのです。 「エルダーシスター制度」の魔法 +そして、それに追い打ちをかけるのが、主人公が「素敵な“お姉さま”」としてまわりの異性たちから認められていく、というストーリー設定です。 はじめての登校日から、すでにまわりからちやほやされはじめてしまう主人公。そして、体育の授業の場あたりから主人公への「黄色い歓声」が聞こえはじめます。そして、まりやが首謀者となってこの主人公を「エルダーシスター」に推挙し、やがて選挙の日がやってきます。そして、その選挙の結果は……いうまでもなく主人公の完全とも言える勝利。そこにさらに「かっこいい」場面を挿入することで、「黄色い歓声」も最高潮を迎えます。ここで、プレイヤーにとっては、自分が今まで経験したことのない状況を主人公を通して「疑似体験」することになります。そう、たくさんの異性から「ステキです!」「キャーッ!」と言われる、というまさに「夢のような」場面を。「愛される」だけでなく、「憧憬」の対象となる、そんなキャラクターに感情移入したプレイヤーは、この瞬間、背筋に強い快感の信号(ゾクッ)を走らせることになります。これが、「エルダーシスター制度」の魔法です。そしてプレイヤーは、ここまでの間に主人公に感情移入し、同化することができていれば、「(主人公に同化した)自分が萌えキャラとなる」という、まさに「普通では考えられない」体験をすることになるのです。 この第一話最終場をもって、「腹黒コンビ」(幼馴染キャラならびにお姫様キャラ)は「ガイド役」から解放されます。もちろん主人公をいじるキャラクターではあり続けますが、あとはプレイヤーがこの「魔法」にかかっていることが「前提」として話が進んでいきます。そんな状態になったプレイヤーは、「おとボク時空」の世界観と雰囲気にいよいよ本格的に「とろけ」ていき、この物語にさらにのめり込んでいきます。そして、その先で待っているのは、さらに素敵な、普通のゲームでは味わうことができない疑似体験なのです。 ※もちろん、この「魔法」の前か後かにかかわらず、「男バレしないか」「男としてのプライドが消える」などの、本当の危機意識があるのは事実です。そのことについては、このあとの節で取り上げていきます。 [コラム]フルボイス化は「主人公萌え」をより身近にした +2006年4月28日に発売された「DVDフルボイスバージョン」を、ここで簡単にレポートしてみたいと思います。まだ出たばかりなので、私も満足にプレイできているわけではありませんが、ひとことで言うと、フルボイス化の“効果”は予想以上のものだった、ということができるでしょう。 いままでの「主人公パートボイス版」においては、ボイスがはいっていない部分の主人公の声は“脳内変換”の上で“再生”する必要がありました。ただ、これはごく一部の人しかできない「特殊能力」(まあ、この作品でその「能力」を身につけた人も少なからずいたようですが)。一般のプレイヤーは、主人公のセリフ部分は、普通に「読み飛ばし」てプレイしていたことでしょう。 この「主人公フルボイス化」は、「おとボク」を正しく「主人公萌え」したプレイヤーの間から特に要望が強かったもので、そのセリフ分量の多さ(もともとの「主人公パートボイス版」でもヒロインたちと変わらない分量のせりふ数がありましたが、フルボイスにしたところ、せりふの数*3はパートボイス時の5倍を楽に超えることとなりました)から「神村ひなさん(=宮小路瑞穂のCV担当)を何日拘束する気だ」という心配もありました。しかし、リニューアル版を出すに当たり、メーカーおよひ流通サイドが、スマッシュヒット作であることを考慮したのでしょう、ファンの大きな声にも突き動かされてついに実現することになりました。さぞかし神村さんは大変な思いをされたことでしょうが、その結果としての「主人公萌え」への影響は、まさにスタッフの皆さんや神村さんのご尽力が報われたものであり、ここに改めて深い感謝の意を表します。 近頃、アニメ界では性転換(MtF=male to Female)ものの「かしまし」や、女装ものの「プリンセス・プリンセス」(実写化までとは意外でした)など、男女間の「ボーダー」という“壁”を崩す試みが次々に進んでいます。「おとボク」のフルボイス化(そしてこの作品もアニメ化されます)は、これらの作品に決して引けを取らない(というより、むしろ上回ると筆者は思っています)「主人公萌え」を実現し、それをより身近なものにした作品として、記録と記憶とに残ることになるでしょう。 主人公に萌えるかわりにシンボリックなキャラ萌えを追求すると…… +さて、主人公に萌えることよりも、攻略対象キャラ一辺倒の萌えを追求すると、いったいどうなるのでしょうか。 通常、陵辱・調教ものでない美少女ゲームのプレイヤーが安心してゲームで楽しむためには、物語が変化や意外性に富み、キャラクターには意外性が少ない(すなわちパターン化されている)ことがよいとされています。ところが、第一章の「[コラム]おとボクのシナリオ(ストーリー展開)って、どうよ?」で触れたとおり、このゲームの物語には意外性がほとんどなく、かつキャラクター設定はパターン化されるのを嫌って、微妙にパターンをはずしてあります。そんな中で、パターン化されたキャラクターとして捉えられやすかったのが、厳島貴子と周防院奏です。 典型的な「ツンデレ」キャラとしても捉えられている厳島貴子の場合、その観点から見てなお萌えることのできたプレイヤーも多かったようですが、「ツン」部分の弱さ*4から「ツンデレは『ツン』部分が多くなければ」という考えのプレイヤーからは「期待はずれだった」と失望される結果となりました。また、ごく一部ではありますが、「デレ」モードでのリアクションが執拗に過ぎる、という批判も浴びています。 典型的な「妹」キャラとして捉えられることの多い周防院奏の場合はもっと悲惨で、「主人公に甘える『妹』キャラとして、サブキャラに徹するべきだった」という批判が見られました。さらには、その「スキンシップ」(すべて“シーン回想”モードに収められている)の多さから、「なぜガチエロ担当?」(=「理解不能」)という声が多く聞かれました。このキャラクターに(単独で)期待してプレイしたプレイヤーは、ことごとく失望する側にまわったものと見られます。この点については、直後の《[コラム]「おとボク」がプレイヤーに要求しなかったもの》の中でその要因にさらに切り込んでいきます。 「シンボリックなキャラ萌え」は、何よりプレイヤーを安心させるものであり、『処女はお姉さまに恋してる』がとった「シンボリックなキャラクター設定からの逸脱」は、それが美少女ゲームである限り、決して“プレイヤーにやさしい”ものではありません。これらの批判は、体験版をプレイしてもなおかつ防げなかった類のものであり、その悪弊がこんな形で出てくることも、作る側としては先刻承知であったと思われます。むしろそれよりも「主人公に萌えられるか?」というほうに体験版をプレイしたプレイヤーの関心が多く向かったのは、しっかりした体験版を作成したメーカー側の努力が報われたものである、といえるでしょう。 [コラム]「おとボク」がプレイヤーに要求しなかったもの +『処女はお姉さまに恋してる』という作品は、プレイヤーにほかの美少女ゲームからは要求されないものをたくさん要求しました。「お嬢さま学校に女装潜入」という設定を受け入れさせることに飽きたらず、「主人公萌え」を要求し、さらには「他者性」(=主人公とヒロイン、ヒロインとヒロインとの「関係性」)において一方のキャラから他方のキャラに萌えること(このあと詳説します)……というように。しかし、ひとつだけ要求しなかったものがあります。それが、ほんとうの意味での「百合萌え属性」です。 本編の中で、第三話は「女性同士の特別な関係性」がストーリーのひとつの中心軸になります。とても綺麗な「関係性」であり、「百合萌え属性」を持つ人にとってはここだけ切り取っても十分に楽しめるようには作られていますが、「関係性」の主たる部分は「精神」部分にあり、「身体」部分の最終段階は(本編上では)「選択可能」なものとして描かれています。そして、それを「選択」したとしても、主人公はヒロインのひとりとともに、その場面を「俯瞰的に」見ることになります。他のえっちシーンとは違い、そこには「エロゲー」としてのフレームが明確に存在しており、主人公と同化したプレイヤーが「身体性を男性から女性に」することは決して求められていません。その「関係性」は、「女性の身体感覚を持つことの素晴らしさ」を語るためのものではなく、この物語が終始追求し続ける「自然な『ご都合主義』」に必要な概念であるところの「恋愛は性別でするものではない」というテーゼをサポートするためにこそ存在しているのです。 それでも、第三話はプレイヤーたちの間で好き嫌いがはっきり分かれる話になりました。話の主体となっているキャラクターが「夏休みに瑞穂にあんなことを」……という理由もありましたが、あくまでも男主人公の美少女ゲームである、という「フレーム」の中に、「綺麗」ながら「百合」なストーリーが挿入されることに対する、普通の美少女ゲーム・プレイヤーたちからの当然の反感であるのかも知れません。 そして、この「百合萌え属性」を求めなかったことが、結果としてこのゲームの全体としての成功と、あるルートでの“大きな反感”を呼ぶことになりました。直前の項でとりあげた「奏ちゃんルートのトラップ」がそれです。『マリア様がみてる』におけるスール関係のような、実の姉妹にも劣らない「姉妹」関係を担当した奏ちゃん。奏ルートでは、基本的に初期段階から男バレしているまりや・紫苑・一子ルートや、途中で男バレしてしまう貴子・由佳里ルートとは違い、男バレする前から“密な関係”ができあがっていきます。作者としては「泣き」を存分に入れることでバランスをとろうとしたのでしょうが、見た目から連想された「ドジでかわいい妹キャラ」というシンボリック通りの活躍を期待したプレイヤーにとって、そのストーリーが「疑似百合萌え」(主人公が男であることを隠して思い悩んでいる、という前提に立っていますから、ほんとうの「百合萌え」とはまったく違うわけです)を要求するものであったことは、「予定調和」とはほど遠い結果であったわけであり、そのことを理由として失望するのも無理はありません。 「エロゲー」というフレームに『マリみて』的な世界観を導入することの難しさ。この事実からそのことが改めてはっきりとわかります。「おとボク」が目指した“峰”は、このある意味相容れないふたつのものを、どのような触媒(瑞穂であり、まりやや紫苑であり)を使って、どのようにバランスをとって(主人公の考え方があくまで男性のそれであること、ならびに主人公の成長物語という軸)共存させるか、という征服の非常に難しいそれであった、と言えます。そしてこの作品は、その「トラップ」を別とすれば、全体としてその微妙なバランスが実にうまくとれたものとなっており、その難攻不落の“峰”を上りきることができたからこそ、これだけの成功を収めることができた、ということになりましょう。 果たして、これ以上のバランスをもった「作品」が、これからまだ出てくるのでしょうか? 主人公に萌えられなかった人は…… +そして、最大の問題は「結局主人公にも攻略対象ヒロインにも萌えることなくプレイを終えた」人たちです。 体験版をプレイしていれば基本的にここにはいりこむことはなかったと思われ、実際に出会う確率も少なかったのですが、これらの人たちも「設定にはまりこめない人たち」同様、このゲームを放り出す結果となりました。例外は、前段で述べた「『ツンデレ』キャラとしての厳島貴子に萌える」ことができた人だけです。ただし、この人たちは、「おとボク」を20%程度しか楽しんでいない、とも言えます。 ここまでで、『処女はお姉さまに恋してる』を楽しむための大きな関門は通り過ぎたことになります。しかし、この作品は、まだこの先に多くの(特に男性)プレイヤーが体験したことのない、新たな「萌え」へのルートを内包しています。それはいったい、どのようなものなのでしょうか。 【さらに理解を深めるために】
(最終更新日:2009-09-26 (土) 15:48:16.) |
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