「おとボク」の萌え構造 >> 12. 補遺・その2
好評を手放しで喜べない理由――アニメ『乙女はお姉さまに恋してる』の萌え構造 +非常に長い準備期間。キャラデザ発表でのごたごた。声優発表での大噴火。そして……2006年10月から放送が開始されたアニメ『乙女はお姉さまに恋してる』。原作ゲーム『処女はお姉さまに恋してる』の独特の「萌え構造」は、アニメ化に当たってどう“翻訳”され、どのような形でアニメーションとしての形を整えることになったのでしょうか。そして、その独特の萌え構造はどのように変わり、どんな風に視聴者に受け止められていったのでしょうか。この項では、それらについて分析を加えていきます。 アニメ化に際して変更された「萌え構造」 +「一般作」へ“翻訳”する上での妥協点 +ひとひねりされた原作ゲームの「萌え構造」は、「一般作」になるにあたって、その「わかりにくさ」を改善する必要に迫られました。 キャラクターの「萌えポイント」をわかりやすく訴えかけるために、特に原作ゲームで「トラップ」があったキャラクター、または親しみにくい属性のキャラクターに対し、キャラクター設定の変更が行われました。
また、すべてのキャラクターについて、役割分担をはっきりさせ、「一般作」としてキャラを立てやすいように工夫されました。
さらに、いきなりの瑞穂萌えは無理、との見解からか、まりや・紫苑の「腹黒コンビ」フィルターを通しての瑞穂萌えを狙うこととしました。 生じた効果 +少なくとも第五話段階までは、「ギャグアニメ」として好評を博する結果となっています。これはもともとの話の序盤(体験版段階)のコミカルさに助けられていますが、この作品の本来の狙いとはほど遠いものである、と言わざるを得ません。 役割分担をはっきりさせた各キャラクター(瑞穂を除く)への萌えは、スタッフの思惑通り実現されています。ただし、その萌え構造は「通常のエロゲ(ギャルゲー)出自の萌えアニメ」としてのそれであることに終始しており、決して「深い萌え」ではないことに留意すべきです。特に、原作と比べてまりやへの萌えを表明する視聴者が多いのですが、その「萌え」の対象があくまで「ギャグ(もしくは瑞穂いじめ)担当」としての部分である、というところがその典型例といえましょう。 “翻訳”された結果が生んだ大きな問題点 +さて、ここからが本題です。筆者は、今回のアニメ化の“成功”を、決して快く思っていません。これは、この作品が本来持つ「萌え構造」や、「愛すべき点」を“故意に”ねじ曲げた結果になっているからです。それはいったいどういうことなのでしょうか、そして今後の展開に対して、どのような反応が予測されるのでしょうか。そのあたりにメスを入れていくことにしましょう。 「瑞穂萌え」を演出できなかった罪 +2ちゃんねるに「アニメキャラ個別板」という場所があります。アニメキャラクターへの「萌え」によって支えられているこの板において、第四話放送期間中の10月30日、ひとつの象徴的な出来事が起きました。第二話放送期間中に立った宮小路瑞穂スレが、なんと「書き込みが3日間なく、保守もされなかったためdat落ち」してしまったのです*1。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか? もう一度、この作品の「萌えの過程」に立ち返って考えてみましょう。第二章の第一節・第二節、ならびに補遺・その1においてしつこく語ってきたことではありますが、この作品の萌えの過程は、次のようなものとなっています。
しかし、それがアニメ化に伴ってどう変わったのでしょうか。まず、あまりの説明項目の多さに「駆け足」進行を余儀なくされ、声優さんのしゃべりが異様に早口になったこと、またガヤによる瑞穂礼賛の声にも「とろけ」度が少ない、という演出上の不備があって、原作の持つあの「雰囲気」、あの「世界観」の醸成が大いに不足してしまいました。このことから、ただでさえ感情移入して見ることが難しいアニメーション放送において、見る側が主人公へ感情移入することが大いに妨げられてしまいました。まりや、紫苑、貴子と、主人公をいじる側、あるいは主人公の前に対峙するヒロインへの萌えは、それぞれ一話ずつを割り振って十分に促進されましたが、それはあくまでごく一般的なものにとどまり、この作品の“特異性”を生かすものではなく、むしろ他の同様の作品と同様の“安易な萌え”になってしまいました。しかも、本来主人公萌えを狙うべき場面が、ことごとくヒロイン萌えの方向に持って行かれてしまったことで、少なくともこの作品の序盤は、他の萌えアニメとなんら差別化できない状況に陥ってしまったのです。 その上で、さらに致命的なことに、主人公のまわりの女性たちがどうして瑞穂をエルダーにふさわしい人間と考えたのか、という重大事実に関するふたつの説明不足が重なりました。具体的には、紫苑が瑞穂と最初に出会う並木道の場面*2での会話と、初登校日夜の奏ちゃんとのティータイムにおける会話の二つです。前者は、紫苑が瑞穂に対してひとかたならぬ感情を抱いたことがはっきりわかる場面であり、後者はなぜ奏が瑞穂をエルダーにふさわしいと強い思いこみを持つに至ったのかがきわめて明確になる場面です。「駆け足」進行にしても決して抜いてはいけなかったこれらの場面が省略されてしまったことで、見る側にとって、なぜ瑞穂がそんなにエルダー選で人気を博するのか、その理由が理解できず「ポカーン」となってしまった様子が見られることになってしまったのです。そして、原作ではむしろ主人公萌えの大きな要因として働いたはずの、序盤での主人公の「存在感のなさ」が、彼がエルダーに選出されることを見る側に納得させることに対し、否定的な材料として働くことになってしまいました。第三話終了の段階で、多くの視聴者が離れてしまった最大の要因は、まさにここにあるのです。 「萌えの過程」変化が及ぼす今後への影響 +アニメ版『乙女はお姉さまに恋してる』では、第三話までの大失策の後、第四話、そして第五話にきて、ようやく雰囲気の醸成ができはじめてきました。そして瑞穂萌えへの原作にない映像を使った「ウラワザ」も炸裂して、方向性の立て直しがかなり進んでいるように見えます。また、キャラクター間の掛け合い(=会話)を通してキャラクターへの萌えが促進される、この作品の非常に優れた点も少しずつ発揮されるようになってきました。実際に感想サイトなどを見回ってみても、第四話以降での“取りこぼし”はほとんどない状態になってきていると見られます。主人公の女装設定を忘れさせる仕掛けも、第五話で数多く差し込まれて、いよいよ本格的にアニメ版「おとボク」の世界観が構築され始めています。 しかしながら、ここまで変わってしまった「萌えの過程」を修復することは不可能です。この作品の原作では、プレイヤーにまず主人公に萌えてもらったあと、主人公とのふれあいの中でヒロインに対する「深い萌え」を獲得してもらおう、という明確な意図が働いていましたが、アニメでは、その構成は次のようになるものと予想されます。
どのみち一つのルートにしか行くことのできないワンクールでのアニメ放送で、視聴者を「回復不能」に導くことは不可能ですが、上の第七話以降の「主人公萌え」、ならびに「主人公とヒロインとの関係性」をどこまできちんと押し出していけるか、それがこのアニメの最終評価に大きく影響してくるものと思われます。これらが両方ともに十分発揮されてこそ、第三話までの大失策がようやく数分の一取り返せる、という状況であるだけに、まだまだ一切予断は許しません。もちろん、せっかくいい方向に出つつあるその「雰囲気」、「世界観」はきちんと維持した上で、の話ではあります。アニメ制作側の賭けが、最終的に凶と出るのか、末吉程度で終わるのか、なんとか小吉までは持ち込めるのか。引き続き十分注意しつつウォッチしていきたいと思います。 第六話問題:しっかり構成した“つもり”の「オリジナル展開」が生んだ「一貫性の破綻」 +さて、悪いことに、「水着サービス回」とした第六話で、とんでもない問題が発生しました。これで少なくとも「小吉」には持ち込めなくなった、と言っていいでしょう。まずはこの図をご覧ください。 アニメ第六話部分の主題は、原作準拠なら「瑞穂がプール授業をどのようなファンタジーで切り抜けるか」という一点に絞られるのに対し、アニメオリジナルでは瑞穂のプール授業“サボリ”は棚上げして、第七話とのつながりを重視してか「まりや×貴子の因縁と対決」という要素を前面に押し出した構造になっています。ただ、瑞穂の水着姿は見せないと納得しないだろう、という判断からか、「一子が憑依して女体化する」というファンタジーを取り込まない代わりに、寮の部屋での水着ファッションショー、という「もうひとつのサービス」を入れてきたことが、実は皮肉にもすべての誤りの始まりとなったのです。 ここでの瑞穂は、下半身部分も目立たず、上半身に至っては完璧な“女の子”としての外見を披露してしまいます。第六話の前半を「瑞穂が男性である、という設定を完全に忘れさせる」ことに重点を置いて構成する意図から来た演出なのでしょう。この姿を見た視聴者の多くは、「この瑞穂ならこのままスク水を着てプール授業を受けてもおかしくない」という理解に達しました。 しかし、少なくとも「水着サービス回」で「瑞穂が男性であることを忘れさせる」のは間違いなく無理な相談であったわけです。結局瑞穂は、“女の子の日”を理由としてプール授業を休む、という“羞恥プレイ”を余儀なくされます(これは原作にもある理由付け)。しかし、三度も休むことで貴子から目をつけられ、そこでまりやが“女の子の日”ではない理由を「でっち上げ」て瑞穂問題を棚上げする、という“暴挙”に出ます。しかし、これでは結局瑞穂が「プール授業を(ずっと)休んだ」という事実に何ら変わりはなく、「エルダーとしてふさわしくない行為だ」「名誉回復できないではないか」という声が浴びせられることとなったわけです。 さらに第六話の後半は、瑞穂と貴子との“フラグ付け”を意識したストーリー展開とされました。しかしどうでしょう。さきほどの「プール授業をサボった瑞穂」を、あの厳しい貴子がどうしてすぐに許す気になれたのでしょうか? ここにこの話における構造上の「大きな矛盾」が明確に意識されてきます。以上の三つのエピソードが、それぞれの間に“断層”を持っているがゆえに、結果としてキャラクターの性格づけを“破壊”する結果を生じてしまったのです。これは、キャラ萌えを狙うアニメとしては“もっともやってはいけないこと”であるはず。原作ファンのほとんどが第六話に対してネガティブな感想を持ったのは、オリジナル要素だから、ということではなく(それなら第五話にも反発が多くてしかるべきであったはず)、この厳島貴子というキャラを壊した「一貫性の破綻」という結果に対してであったわけです。 しかも最後に、瑞穂は貴子に手紙を送って、「でっち上げ」た理由がいかにも正であるかのように、「嘘を嘘で塗り固める」行為に走ってしまいました。このセリフには「別の意味(=視聴者へのメッセージ*3)」が込められていたのですが、それとは別に、原作ファンたちは「嘘をつき通す瑞穂」に、宮小路瑞穂というキャラまで壊され、さらなる“奈落の底”に突き落とされることになってしまったのです。 そして、これらの事実を冷静に眺めてみると、あるひとつの“一貫性を保つための手段”が導き出されてきます。それは、原作通り「瑞穂が一子に憑依されて女性化する」というファンタジーの実現です。あまりにも突飛なので“憑依”というファンタジーだけは避ける、というアニメ化スタッフの意図は、こうして「アニメ化作品だけが抱える矛盾の露呈」という、みごとなまでにお粗末な結論を、自ら導き出す結果となったのです。しかも、まりや×貴子の対決をバラエティーショーとして演出することによる、「お嬢さま学校」の“雰囲気完全破壊”という“とんでもないおまけ”まで付けて。 第七話問題:失敗に終わった“壮大な実験”を検証する +第六話での原作ファンの落胆に続き、第七話はアニメからの組も含めて好意的な感想が極めて少ないという“異常事態”となりました。これでアニメ制作側の賭けは完全に「凶」、すなわち失敗に終わった、ということが明確になりました。左の表をご覧ください。 第七話で何が起きたか、端的に説明したものです。第六話までの間に蓄積された問題点と、第七話で新たに発生した問題点とが悪い影響を及ぼし合い、原作の中でも唯一この部分にある「 エピソードの取捨選択に基づく問題点 +まずアニメ第七話における「説明不足点」について、整理してみましょう。絵などで説明されていても、理解されていないとおぼしき点も含めてあります。
本当はまだあるのですが、本編の話に関係するところに絞ってもこれだけあります。今回の生徒総会のシーンで「詭弁」「屁理屈」などと言われた瑞穂の演説内容ですが、“妹”である奏を守るための論理の組み立てについては、上に記した説明不足点のほかに、紫苑・まりや・瑞穂・奏と総動員での“作戦会議”こそが必要なエピソードであったのではないか、と思われます*5。 それともうひとつ、「何を今更」と言われた「服装検査シーン」ですが、原作での話の筋はまったく違っています。
特に「服装検査」などしたわけではなく、一部の方が感想で想像されていた通りの「警告の裏にある意味」がわかるように描かれていることがおわかりになると思います。 そしてもう一つ、原作第四話は後半、「まりや・由佳里ルート」と「紫苑・奏ルート」とで、話の内容が分岐します。奏が数人に取り囲まれての“いじめ”のシーンがその分岐に該当しています。このふたつのルートの間では、構成が大きく異なります。
アニメ第七話では、「孤児(院)」がいわゆる“放送禁止用語”であることと、「恥を……」という名セリフを使いたい思いとを“両立”させようとして、「いいとこどり」のために分岐した別々の話を矛盾する形で取り込んでしまい、「あちら立てればこちらが立たず」な状況になってしまったのです。アニメ第七話の感想の中で、「ノベルゲーム」と「アニメ」との媒体の違いに触れられていた方がいらっしゃいましたが、非常に鋭い視点であり、この物語が「必要性」をきちんと考えて構成されていることをきちんと理解し、「必要性」を壊すことなく再構成することがいかに難しいか、ということを露呈する結果となってしまいました。それを露呈させるのは、どう見ても「プロ」の仕事とは思えませんが。 第六話(まで)と第七話との重大な矛盾点 +次に、第六話と第七話との矛盾点について触れていきましょう。 第七話の感想の中に、「貴子とまりやとの対立関係は、第六話の“対決”をもって解決したのではなかったのか?」という趣旨のものがありました。第六話問題については前節で詳しく話しましたが、“憑依”を出せない代わりの解決策が、とんでもない“汚点”を残した形で、第七話に悪い影響を与えることになってしまいました。 原作では貴子とまりやの対立関係は、この話のあともまだまだ続いていきます。アニメ第六話が、“対決”の勝敗とともにふたりの対立関係をあやふやにしてしてしまったことは、第六話限りでは面白かったのかも知れませんが、物語全体の流れから見ると、どう見ても矛盾していたわけです。 重なった「コンセプト作りの失敗」と「アプローチ変更の悪影響」 +もうひとつ、第六話までの「コメディ」を楽しんでいた人たちの失望が、第七話の感想に多く見られました。第一章/第四節のコラムに書いたとおり、原作をプレイした人の中にも多く見られた感想ではありますが、アニメでは原作と違い、序盤を「コメディ」にした「(主人公をいじることによって)主人公に萌えさせる」という「必要性」がどこかに飛んでいってしまったため、純粋に「コメディ」として楽しんでいたところにやってきたその「落差」に、失望の度合いがさらに大きくなってしまった、ということになりましょう。 さて、ここまでのところでとんでもないことが見えてきました。それは、この補遺の最初にあげた、アニメ化に向けて「一般作」にするための「翻訳」作業が正しかったのかどうか、ということです。 原作では、7月からいきなり10月に飛ぶわけではなく、夏休み、そして9月のストーリーがあり、「コメディ」から「シリアス」へと準備期間なくいきなり転換するわけではありません。原作組からも緋紗子先生関連のエピソードはあまり評判がよくなかったことから、カットに至ったのはやむを得ないとは認識していますが、やはりこの2ヶ月のブランクは決して小さいものではなかった、ということができるでしょう。 そして、もっと大きな失敗は、「根底から乱しているどころか学院の風紀に革命を起こしている女装男が目の前にいるから!」「実は男と大きな欺瞞を抱える瑞穂への突っ込みが少ないのも気になった」「もう少し男であることは前面に出てこないのか」「主人公が男である意味がいよいよ薄い。どうせならもっと本質的に粗野な性格とかがいい」という感想を多くの人に持たせてしまっている点です。前節で述べたとおり、アニメ化作品では、まずヒロイン萌えをさせておき、第七話からの主人公の成長にスポットを当てた部分で主人公萌えを狙ったわけですが、この構成は、上のような感想からわかるとおり、「校則」を話題にした話であった、ということも響き、完全に破綻してしまいました。原作をとろけてプレイしていれば、とうの昔に主人公萌えしているプレイヤーにとって、第四話時点での主人公は性別を超えた「お姉さま」ということで何も問題がなくなっている頃合い。しかしながら、アニメ第六話での話の持って行き方(“女装男”であることが殊更強調されているようにも思える)からみるとき、このような視点や感想が出てくるのは無理もない、と頷かざるを得ません。そして、そうして見ていったときに、すべての主人公の「かっこいい」行動は空回りし、生徒総会での演説内容に存在する「粗」が致命的なものに見えてしまうわけです。 そこまで悪い部分が突出してしまった原因は何なのでしょうか。それは、「エロゲ」原作であることを前面に押し出し、「対立軸」を作ることによってわかりやすさを狙ったコンセプト作りにこそあります。それは、おそらく監督の名和宗則氏ならびにシリーズ構成の長谷川勝己氏=特に後者=の仕事であったはず*7です。 エロゲやギャルゲーでは、萌えの対象は当然ヒロインであり、しかもエロを強調することで視聴者の期待に応えようとしたこと。第六話まではそれでなんとかごまかせましたが、当然「エロ」がなくなった瞬間に、視聴者の期待を裏切ってしまう結果となってしまいました。また、第一章/第二節にも述べたとおり、「主人公の成長物語」であることを強調することも、またエロゲのフレームワーク通りである、と言えます。しかし、アニメ第七話相当の原作第四話は、エロゲのフレームワークに決して従ってはいません。第三者の視点からではなく、主人公の視点からヒロインとの心の触れ合いを楽しむ、という観点がアニメ化作品から失われている以上、そこにはイベントがあるだけであり、いかに原作通りに話を進めようとも、この作品が真に狙っているものは一向に捉えられなくなってしまうのです。 また、「対立軸」を作って話を見えやすくしたことも、「貴子×まりや」については前述の通り“自爆”状態であった上に、「貴子×瑞穂」については、「対立軸」をせっせと作っていく貴子に対して、決して「対立軸」を作ろうとしない主人公にスポットが当たることによって、「対立軸」そのものの存在価値が問われてしまうことになってしまいました。 『処女はお姉さまに恋してる』という物語が描いていこうとする登場人物間の人間関係は、そんなに浅はかなものではありません。この物語の裏側にあるテーマのひとつが「強い絆」「確かな想い」であることは「萌え構造」本編の中でも述べました(第二章/第三節〜第四節あたり)が、それらはむしろ時間をかけてお互いの人間性を認めていく中で築かれていくものであり、決して安易に手に入れられることでないことは間違いありません。それを「エロゲ」としてのわかりやすさにこだわり、この物語の「重み」を捨て去ったコンセプトに矮小化してしまったことから、「恥を、恥を知りなさい!」というとてつもない重みを持つ名セリフを、「女装男に言われたくない!」という冷めた目で視聴者に見つめさせる結果になってしまったのは、アニメ化スタッフにとっても、原作を愛する者にとっても、まさに“屈辱”以外のなにものでもなかったのではないでしょうか。 【以上、2006/11/24時点での情報をもとに執筆しました。】
【さらに理解を深めるために】
(最終更新日:2009-09-26 (土) 16:21:24.) |
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