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作者あとがき +まず、ここまで小論をお読みいただいた皆様、ありがとうございました。心から御礼申し上げます。約一年をかけて(もっとも、ほとんどの期間は構想を温めていたわけですが)このテーマと向き合いながら、いろいろな資料文献やら、某巨大掲示板群や多数のブログをはじめとするWebサイトやらを眺めてみて、ひとつ感じたことがあります。年寄りの戯れ言だと思って聞いてやってください。 それは、「萌え」の世界にも、「当事者意識」を持つことを避ける空気があまりに充満しすぎていないか? ということです。「第三者的視点」から「萌え」の世界を「俯瞰」して楽しむ。作品の質より、たとえば誰が絵を描いたか、誰が声をあてたか、それこそが重要。アニメにしろ、「美少女ゲーム」にしろ、その限定された楽しみ方の範囲内で、「萌えキャラ」の「萌えリアクション」に「萌え〜」という反応を示している。そんな「萌えの『消費者』」たちの姿がさまざまな場面で見られた、ということです。この作品は「キモイ系」(さらにその中の「解脱系」)に属するそうなのですが、私も正直なところ、「キモイ系」という言葉が内包する「もうひとつの意味」をなかなか理解することができませんでした*1。幸いにも(?)、『処女はお姉さまに恋してる』のアニメ化*2に際して“あの騒動”*3があり、声優オタク、アニメオタク、美少女ゲームオタク、アイドル声優マニア、原作至上主義者、商業(儲け)至上主義者……とまあありとあらゆる立場の人たちが入り交じって、半ば「罵り合い」と化した某巨大掲示板群の「アニメ新作情報板」スレ*4の様子を眺めながら、ようやくそれを理解することができました。そして得られた結論は、私にとってあまりにも悲しいものでした。この作品に「とろけ」、心からこの作品のファンを増やしたい、と思っている人たちに浴びせられた「きんもーっ☆」という言葉……これこそが、まさしく「キモイ系」の「もうひとつの意味」だったのです。 文中に何度も、この作品が「主人公視点=当事者意識」をもってプレイすることが求められた作品であることを述べました。これは、この作品が、明らかに“一般的な”(“安易な”という言葉に置き換えてもいいかも知れません)「萌え」とは違うものを、プレイヤーに対して求めていることを意味しています。だからこそ、普通の「美少女ゲーム」「エロゲー」と同じものさしで計ったのでは、この作品のほんとうの魅力は見えてきません。このゲームが、「実際にやってみないとわからない」魅力を持った作品になってしまったのは、このプレイヤーへの要求内容が間違いなく大きな要因となっているように思えます。私は「心からこの作品のファンを増やしたい」立場ではありますが、このような騒ぎの内容から見て、「アニメ化」に際して、この「萌え」の種類の違いが、一般視聴者にとって、かなり大きな「壁」となりかねないことを懸念します。そして私はもう一つ、もっと大きな懸念を持っています。それは、「萌え」と同じように、「政治」や「経済」や「社会」に対しても、同じように「当事者意識」を持つことなく、与えられた環境の範囲内で、第三者的立場から「俯瞰」して楽しむ「クセ」がついていないだろうか、ということです。もし、本当にそうなのであれば、それは決してよい結果を生むものではありません。そのことにもっと危機感を憶えるべき彼らがそうならず、「長いものには巻かれよ」的な考え方に終始していること、それこそが、私にとっては理解しがたいものであるわけです。 そんなことを考えて作られたものとは思いませんが、『処女はお姉さまに恋してる』という作品は、ひょっとしたら、そういういまの状況に対する警鐘も含んだ作品なのかも知れない、そう思いつつ。 2006年7月27日
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(最終更新日:2008-03-13 (木) 13:55:04.) |
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