「おとボク」の萌え構造 >> 2. 第二章 >> 2-6. 第六節

 

まとめ:「おとボク」という作品のほんとうの「魅力」とは +

 第一章、第二章と、「処女はお姉さまに恋してる」の《超絶萌破壊力》を生み出す要素と、それらがどのような順序でプレイヤーにとっての「関門」として現れるのか、を追いかけてきました。
 第二章最終節では、これらを三つの要素に整理し、「おとボク」という作品のほんとうの「魅力」を再確認していきます。

作品の持つ際立つ「総合力」 +

 「おとボク」の魅力、その一は、「総合芸術作品」としての力、すなわち「総合力」である、と言えます。この「総合力」は、そう簡単に出せるものではなく、この作品の制作に携わったすべてのスタッフのベクトルが、この物語の「世界観」「雰囲気」の醸成に向けて結集されたことにより、はじめて生み出すことができたものです。それでは、この作品の「総合力」について、いくつかの観点からまとめていくことにしましょう。

「『マリみて』みたいなエロゲー」――明確でわかりやすいコンセプト +

 まず、そのベースにあるのは《明確でわかりやすいコンセプト》です。誰もが「いつかは出てくるだろう」と思いつつも、一向にチャレンジャーが現れなかった「『マリア様がみてる』のようなエロゲー」への挑戦が、運も味方して(?)企画会議を通り、制作のスタートラインに立ったとき、そこにあったのはわずかな期待と、それよりはるかに大きな不安であったのかも知れません。しかし、その《明確でわかりやすいコンセプト》は、その「世界観」「雰囲気」を大切にしたゲーム作り、という明確なベクトルを作り出すことに成功しました。もちろん、このメーカー(=キャラメルBOX)が、前作『シャマナシャマナ〜月とこころと太陽の魔法〜』(ちなみにこれはあの『ハリー・ポッター』シリーズをモチーフにしたようです)で、同様の「世界観」「雰囲気」を重視した作品を仕上げていた、という点も見逃してはならないでしょう。

「ご都合主義」の徹底――「設定勝ち」の裏を支える「必要性」 +

 続いて打ち出されたのは、《「ご都合主義」の徹底》です。主人公である宮小路瑞穂が“祖父の遺言”により“祖父/父の立場”を使って問題なく女子校に編入できてしまう(これがこの作品で最も「あり得ない」ことであるわけですが)ところからはじまって、“女装”にしろ、人外キャラクターの存在にしろ、ヒロインキャラによるガイド担当にしろ、すべてが「必要性」のもとに、「世界観」や「雰囲気」との調和を図りつつ、「不自然さを感じさせない」ように設定されています。しかも、それらがそれぞれのキャラクターの魅力をうまく引き出しながら、作品の中に上手に埋め込まれているため、むしろ「総合力」をうまく引き出す結果を得ることになりました。
 逆に、必要性のないものは徹底的に排除されました。主要登場人物に主人公以外の男性がいないことをはじめとして、某ルートに登場する「四人組」以外、誰一人「悪人」がいないことも(しかも、それもまたこのメーカーとしては普通のことだった、というのもまたベクトル合わせの面で大いに幸いしています)またしかり。水着姿を見せるのが主人公(憑依モード)ただ一人なのもそこに「必要性」の積み上げがあるからです。逆にヒロインたちの水着姿は出す必然性がなかったため潔く省かれています。このように、綿密に計算され、徹底された「ご都合主義」であるがゆえに、よくありがちな「ご都合主義」そのものが“破綻”してしまう、といったこともないわけです。

 このゲームについて、私もまとめサイトの「『おとボク』ってどんな話?」に(製品の発売前段階において)「舞台設定」「キャラクター設定」「ストーリー設定」の「設定三点勝ち」という趣旨のことを書きました。しかし、そう言ってしまうことはたやすいことですが、実はその「設定勝ち」に持ち込んだのはこの「必要性」から生み出された《「ご都合主義」の徹底》である、ということも忘れてはならないでしょう。

さまざまに工夫された演出――ひとつのベクトルに向かって +

 こうして、メーカーとの相性に恵まれたこの作品は、さらにさまざまな演出との組み合わせにより、その「世界観」「雰囲気」の表現に磨きをかけていくことになりました。このあたりは第一章・第三節にもいろいろ書きましたが、「少女漫画的演出」に合わせる「必要性」のあった少女漫画的キャラクター造形は、原画家さんとの相性にも恵まれ、キラキラや薔薇枠がとてもよく似合うものでしたし、声優さんの演技も、テーマ曲・挿入歌・BGMも、すべてがその「世界観」「雰囲気」にあったものとなった結果、この作品の「総合力」がますます際立つこととなりました。


 「絵がいい」「シナリオがいい」……いま、人気が出る美少女ゲームの二大要素です。この作品は、その“少女漫画的キャラクター造形”ゆえか、残念ながら「絵がいい」という評判にはなっていません。また、第一章第四節内のコラムで書いたとおり、シナリオも「すばらしい」と評判をとるほどのものではありません。しかし、抜群の雰囲気とともに、この作品が備えた「総合力」は、それら二大要素に負けず劣らず、「総合芸術」である美少女ゲームにとって、大いに評価されるべき要素です。ただ惜しむらくは、そういう評価軸が「美少女ゲーム」においてはほとんど採用されていない、ということでしょうか。

《超絶萌破壊力》はいったいなぜ備わったのか +

 続いて『処女はお姉さまに恋してる』二つ目の魅力は、やはり《超絶萌破壊力》です。見た目ではなく、計算された話の進め方で深い萌えにプレイヤーを誘うその手法は、一方では「やってみないとわからない」弱点も持ち合わせていますが、他方では実に学ぶべきものが多い手法であるとも言えます。この項では、この作品の《超絶萌破壊力》を産んだ要因について、復習していきましょう。

巧みな主人公のキャラクター設定 +

 まずは、「巧みな主人公のキャラクター設定」です。「完璧超人」設定なのに、まったく知らない世界(この点で主人公とプレイヤーは同じ)である「処女(おとめ)の園」に転入するための女装で「女らしさ」を引き立たされるところからスタート。序盤は男性的な部分を持った「腹黒コンビ」にいじられ、思わず共感させられてしまう。そしてその先に“エルダーシスターの魔法”があって、主人公に萌えた上でプレイヤー自身が快感を味わい、「完璧超人」設定が逆に気持ちいいものになってしまう。……この非常に巧みな設定こそが、この作品を「主人公視点の獲得」そして「主人公に感情移入したプレイヤー自身が萌えキャラとなる」という「キモイ系の極致」へと誘導したわけです。

「関係性」(「他者性」)を意識しながらヒロインに萌える +

 その上で、「処女(おとめ)の園」の中では自分だけが異質な存在である、という認識のもとに生まれる「他者性」=「関係性」。これが先にあって、それを強く意識しながらヒロインの内面に触れることにより、ヒロインにもより深く萌えることができる。通常の「第三者的立場からの俯瞰」ではなく、「当事者的立場」でヒロインと相対するため、心の触れ合いにリアリティが感じられ、深い「萌え」を得られる構造。この構造こそが《超絶萌破壊力》の源泉であるわけです。

ヒロインから他のヒロインに萌える +

 この作品ではさらに、「自分以外の視点」で進む部分を明確に“色分け”することによって、ヒロインから別のヒロインへの萌えの獲得をも推奨しました。このことにより、《超絶萌破壊力》はさらに威力を増す上に、いままでにそのような梯子を持っていなくても、「男の子がいなくても萌えられる」ようになる、といういい意味での「副作用」つきで、もう何も言うことはありません。ここまで段階を追って上手に深い「萌え」へと至らせる構造を、「超絶」と言わずして何というのでしょうか?


 この作品の場合、ひと目で「萌え〜」な人が多数派でないところは明らかに減点対象なのですが、作品の「萌え構造」の素晴らしさは本当に特筆すべきものであり、『処女はお姉さまに恋してる』の「キャラ萌えゲー」としての評価は、そのキャラ立ちぶりもさることながら、その最大の要素はこの萌え構造から来る《超絶萌破壊力》によるものと言って間違いないでしょう。

「作品世界から抜け出したくない」という感情はどこから生まれてくるのか +

 そして、この作品の三つ目の魅力は「作品世界から抜け出したくない」という感情がプレイヤーに宿る、ということです。いったいその感情はどこから生まれてくるのか、ということについて、おさらいしてみましょう。

入り口は「美少女ゲーム」のそれだが…… +

 この物語は、「主人公がまわりのヒロインたちから愛される」構造や、「学園もの」「主人公(やヒロイン)の成長物語」という、明らかに「美少女ゲーム」としてのフレームを持っています。しかし……

「中毒性」をもたらした作品構造とは +

 まず、《女子校とその校地内の寮というすっかり隔離された世界に生きる》こととなり、元に戻るための梯子をいきなり外されてしまいます。
 続いて、いじられキャラとして登場した主人公に萌え、主人公に感情移入(=同化)したプレイヤーがこの「萌え」の世界から疎外されない状態になっているところに、「完璧超人」としてまわりの女性達から「キャーッ」と言われるシークエンスが登場し、えもいわれぬ快感に酔うことになります(これを「とろけ」と称しています)。
 次に《はいってみたら“異質な存在”は自分一人》である、という立場に置かれているため、「関係性」「他者性」を強く意識した上で、ヒロインと「強い絆」を構築し、「確かな想い」を共有することにより、エロがあっても「免罪」され、精神的に「浄化」されてしまいます。
 さらに、ヒロインの視点から他のヒロインに「萌え」ることができるようになると、日常シーンまでもが愛おしいものとなり、この作品の世界(これを「おとボク時空」と称しています)から抜け出したくない、と思うようになります。
 しかも実際に「強制的に元に戻る」オプション(=バッドエンド)がないため、プレイヤーは好きなだけこの作品の世界に“安住”することができるのです。


 ……このように、「必然的に」作品世界から抜け出したくない(しかも実際に抜け出させない)という感情を持たせるように作られてしまったことで、この作品に猛烈なまでの「中毒性」が宿る結果となりました。

この作品はほんとうに「奇蹟」なのか? +

 最後に、『処女はお姉さまに恋してる』という作品がこのような作品に仕上がったのはほんとうに「奇蹟」だったのでしょうか?

 否。意識的に構造化されたプロットの存在と、そこに丁寧にテキストを、絵を、演出を、声を、音楽を積み重ねた、制作に携わった全員の努力が結集された結果であり、決して「奇蹟」などではあり得ないのです。

 むしろ、この作品については、プレイヤーにとって《夢想の実現を確信》させる萌え構造を持った作品、という意味で「奇蹟の存在」である、と言うことならできるわけですが。

 

(最終更新日:2008-03-13 (木) 13:55:04.)



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